羽山昭彦のストーリー「2代目の自覚」

羽山工務店 羽山社長

皆様、 はじめまして。

羽山工務店 代表の羽山昭彦です

このたびは、 羽山工務店に興味を持っていただき誠にありがとうございます!羽山工務店のお客様には「ハヤコウさん」親しみを込めて呼んでいただいております。

ご覧のあなたにも「ハヤコウさん」 と身近に感じていただける良いご縁となることを願って、 ご挨拶をさせていただきます。

 

~次世代まで誇れる家づくりで、 繋がる全ての人を幸せに~

2016 8 羽山工務店の2 代目として現会長の羽山明夫から会社を引き継ぎ、これまでの経験の中で行き着いた経営理念です。

このページでは、羽山工務店に興味をお持ちの方に、この経営理念に辿り着くまでの私の体験談をお話ししたいと思います。

長文にはなりますが、「なぜ、家づくりにコミュニケーションが大切なのか?」その参考になるように書かせていただきましたのでぜひご覧ください。

曲がったことが大嫌い 羽山昭彦です。

突然失礼しました。

私の父現会長)は、 宮城で生まれ大工として上京。ここ立川で創業しました。

1974 年、 私が生まれたちょうどその年と聞いています。

大工として上京し60 年以上累計200 棟以上の家づくりに携わってきた父。同年代の大工がひっそりと会社を畳む中、試行錯誤しながら地元で信頼される会社に成長させた経営者です。会社を引き継いだ頃は、 意見が食い違いケンカばかり

こんなことなら別の会社を自分でつくってとも思ったこともありましたが、今は、 私が尊敬する経営者の一人です。

そんな父から引き継いだDNA の一つが「曲がったことが大嫌い」 という性分です。幼少期は、

「なんでそんなことするの?」

「これっておかしいんじゃないんですか?」   学校の先生から「もっと柔軟に」 と言われても

長いものには巻かれない! のような変な気持ちから、自分の考えは曲げない頑固ものでした。

 

高校では地元から離れ、 コンサート(LIVE) にハマる

2 代目とは言いましたが、元々は代を継ぐ気満々というわけではなかったんです。高校も地元から離れていました。学生時代やりたかったことは、 イベントの裏方。イベントの企画会社にアルバイトとして入って、

ミキサー適切な音量とバランスで出力するための音響機器)のアシスタントをしたり、 裏方として働きました。自分で前に出るよりは、主役を引き立てるサポート役にやりがいを感じていました。

その流れのまま、 音響の会社に就職。

でも…

1 ヶ月で退職 人生はじめての挫折

「現場出してください」

アルバイトの経験もあり意気揚々としてスタートさせた社会人生は、わずか1 ヶ月で幕を閉じることになります。

その当時はイベント全盛期。

ある大物アーティストのLIVE で、

翌朝の2 時まで現場仕事して4 時から次の日の仕事。それが約1 週間続くそこで挫折しました。

そんな時、 声をかけてくれたのが経理部長の母でした

俺は、 不動産の道へ行く

「お父さんの運転手をしなさい」

母の勧めで家業の手伝いを2 年ほど行いました。
でも実は、 嫌で嫌でしょうがなかったんです。   現場の手伝いも嫌だし、 ガンコ親父も嫌だ!って。常に親父とは喧嘩してました。
「帰れ!」 って言われて2回くらい本当に帰ったこともあります笑)

何か自分で道を切り開かなければ)

日が経つにつれ、 そのように思うようになりました何かしらでは「家づくり」 に携わる仕事をしたいという想いもあり、宅建士の資格を取得し、 不動産業界進むことに決めました。

そこで私は天職との出会います。

「コレだ!」 自分の目指す方向が見えた瞬間

 働いた会社は、 賃貸住宅会社と売買仲介の会社の2 社。職種は営業です。

営業になった理由は、 人と関わる仕事がしたい! という想いから。  実際に現場に出ると人と関わる仕事は自分にとって天職に感じました。お客様と会話をして課題を解決して。

「ありがとう」 そう言われて、 自分の成績もあがる。成績があがれば給料にも跳ね返ってくる。

「気持ちが通じ合う」

この感覚が何より嬉しくて夢中で仕事に打ち込みました。今でも憶えているのが、ご自身は他社で契約することになったのに「羽山さんはいい人よ」、お友達を3 人も紹介してくれたお客様。

「一生懸命やるから」 という理由で私のことを信用していただきました。通じ合った気持ちが次の縁を呼んでくれたんです。

「コレだ!」 今の羽山工務店の経営にも繋がる

自分の目指す道、 みたいなものが見つかった瞬間でした

「たずさわっていた人とはずっと付き合いたい」

自分の指針が見えてきた時、逆に、 自分とは異なる方針にも気づくようになりました

売り終わったお客さんところには行くな!

それは売買仲介会社で営業として働いていた時のことでした。

「このマンションを買ったらお客が不幸になるとかは考えるな!」売ったら終わり。 売れればその後は気にしない。この営業方針に、 私はどうしても納得がいきませんでした。その会社は契約がピーク。契約後の仕事を「残務」 と呼ぶ会社でした

ある時はこんなことも。

「売り終わったお客さんところには行くな」

つまり、 後フォローは必要ないということです。この言葉がどうしても納得いかず、 父会長)に相談しました。

「それなら、 ウチでやればいい  一度飛び出した羽山工務店ですが

会長)の言葉に、 もう一度やろうと決断しました。

一回お付き合いいただいたのであれば、 ずっと頼んでいただけるような関係でいたい

会社に戻ったと言っても、当時は、 代表の父と経理の母、 そして先に大工として入社していた弟現専務)のみ。まさに、 ゼロからのスタートでした。

大切なことは、 人の輪をつくること

そのためには、 どちらが上・下ではなくお互いに平等WIN-WIN の関係を築くことです。

挨拶にはじまり、協力業者「さん」 と呼ぶこと協力業者さんとの結束を高めるために「業者会」 を開催

頼れる業者さんたち

お客様との関係ももっと深めていくために定期的なコミュニケーションレター「ハヤコウ通信かわら版)」 の発行

地域の方々とも一緒に行う夏祭りの開催

ホームページもリニューアルして、 ブログもみんなで更新しています。

「そこまでやる必要があるのか?」

ときには会長から反対を受けたこともありましたが、   私には、 お客様との心が通じ合った瞬間の喜びの体験と、お客様と長いお付き合いこそが地域工務店の役割だという信念がありました。

会長が泣いた日 忘れられないお引渡し式

会長が反対していた取り組みの一つに「引渡式」 がありましたでも、 他社さんに教えてもらったこの取り組みは必ずお客様に喜んでもらえる。

そう確信していた私は、会長自身の新居の引越しの時に内緒で準備をして、会長には「この時間にメーカーさんが家見たいから来るから」 と伝えその時間に業者さんに集まっていただくという「サプライズ引渡式」 をしました。そこには、 驚きと感動。

ともに感動の時間を過ごしたときに生まれた絆は今でも繋がっています。

「…会長も頭ごなしに反対していたわけれはなく、私の本気度を確かめていたのかな?」なんて

お引渡し式をはじめとした式典は、羽山工務店の一つの文化。お客様にも感動を味わっていただきたくスタッフ全員で準備をしています。

「羽山工務店が無くなったら困る!」 そう言われる会社に

ここまでご覧いただきありがとうございました。

「次世代まで誇れる家づくりで、 繋がる全ての人を幸せに」この経営理念は、 これから出会うお客様はもちろん、

これまでのお客様とのお約束でもあると思っています。

創業は、 会長と経理部長の2 人、   当面は家族4 人ではじまった会社が、

おかげさまで今では、 10 人以上のスタッフ、そして20 社以上の協力業者様とともに歩める会社になりました。

経営理念の実現には、まだまだ未熟なところが多い羽山工務店ですが、人と人との繋がりを大切にする工務店としての信念は曲げず、精進してまいりますので、お家のことで困ったことがありましたら、 お気軽にお声がけください。

 

羽山工務店 代表取締役 羽山昭彦