みなさん、こんにちは。
株式会社羽山工務店 会長 羽山明夫です。
このたびは、弊社ホームページをご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
私たち羽山工務店は立川市を中心とした地域で皆さま方との家族のようなお付き合いを通じて、「羽山さんに頼んでよかった!」と喜んでもらえる家づくりを心がけております。
さて、誕生物語というと、少し固い文章になりがちですが、私の生い立ちを含めた羽山工務店の家づくりへの思いを、地域の方に少しでも知っていただきたく筆をとりました。
少しお付き合いいただければ幸いです。
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■母の言葉で上京を決意
昭和39年、故郷の宮城県より大工になるために上京しました。
そもそも何故この業界に入ったかと言うと、ふたつ上の兄が大工をやっていて修行を終えた段階で、実家の家を建替えに田舎に帰ってきました。
当時、兄は23~24歳。実家でその仕事ぶりを見ていた母親が…
「あんたも大工になったほうがいいんじゃない?」と母親に言われたのがキッカケです。
この母親がまた厳しい人でした。
6人兄弟全員を、ちゃんと横道逸れずに育て上げましたし、母親には尊敬というか、逆らっちゃいかんなと思っていました。
そんな中、私は15歳。母親の言葉もあり、就職活動もしていましたが、最終的には母親の意見を受け入れる形で、東京の兄の修行先の工務店へ、兄と入れ替わるように入社しました。
今思えば、昔ながらの工務店といった感じでした。
その工務店には住み込みで4年間お世話になりました。正直まだまだ子どもでしたが、辞めたいと思うことは無かったです。
ただ、自分で決めたことはやり通す主義ですから「自分は大工になる。一人前の職人になる。」と宮城を出るときに決めていました。
■負けず嫌いの心に火が付いた
4年目に入ったころです。当時務めていた工務店は、忙しい時期と暇な時期が極端でした。
暇な時には仕事がないから他の現場に手伝いに行くわけです。
そこで別会社の同い年の人を見てショックを受けました。
その方と私の差を感じてしまったんです。
現場の上の方には「こっちはなんでもできるのに、こっち(私)はなんにもできない」と言われてしまいました。私の経験が少なかったからそういう差が出たんですね。
「このままじゃダメだ…もっと仕事に打ち込める環境に行かないと!」
負けず嫌いの心に火が付きました。
勤め先の親方に直談判して「そういうことなら他で頑張れ!」といって気持ちよく送り出してもらいました。まだまだ若い自分のわがままを酌んでいただいた当時の親方には感謝しています。
意気込んで会社を辞めたものの、様々な方に話を聞いたりするのですが中々ここで働きたいという人には出会えませんでした。
そんな中、宮城出身の棟梁と出会いました。
「早く何かを吸収したい」と、少し焦っていたのかもしれません。
正直当時はどれだけ凄い人なのかも分からずその人に2年ほど付かせていただきました。
その親方はなんでもやらせてくれました。
わからないこと、難しいこと、知らないことは丁寧に手取り足取り教えてくれました。
しかし、仕事は以前とは比べ物にならないほど大変でした。遠方になる現場も多く、技術的にも、肉体的にも、精神的にも大きく鍛え抜かれました。
そこでの経験は素晴らしく、辛くもありましたが今の自分の基礎をつくっているのだと思います。
■大工としての姿勢
そんな充実した日々もあり、23歳になったころ。
大工として独立、そして結婚もしました。
当初は色々な現場を大工として周って、勉強しながら腕を上げている頃です。職人は現場をこなせばこなすほど上がると実感する日々でした。
時代が良かったのかもしれませんが、大工として仕事が切れることはありませんでした。自分で言うのもおかしいですが、やっぱり責任感の問題だと思いました。
仕事を受けたら工期内にキチッと終わらせる。言ったらキッチリやる。絶対に約束は守るというのは徹底していました。やっぱりウソはつけないですから…そういう所は母親に似たのかもしれません。
■永い付き合いが出来なければ何の意味もない。
下請けとはいえ、順調に大工として仕事を増やしている中で、ある方と出会います。
今思えば最大の転機【羽山工務店誕生】はその方がいたからかもしれません。
ある工務店の社長さんです。その工務店からも仕事をいただいていました。
社長はとても人望が厚く、人間的にも魅力に溢れており私も大好きでした。
ある時一緒に仕事をさせていただく中で、その社長にこんなことを言われました。
「いつまでも材料を、あてがわれたものを使ってたちゃダメだよ。羽山さんは
自分で材料も持って来て仕事をしなさい。」
(※当時、材料は現場に用意されているのが当たり前でした。)
「なぜ?」と思いました。
ほかの大工さん、職人さんには一切そういうことを言わない社長が私にだけそう言いました。
もちろん最初は疑問に思いましたが、尊敬する社長でしたので言う通りにしました。
その後も、社長は建築のあらゆることを教えていただき、大事な資料も譲ってくれました。
下請け仕事、いわゆる家を「建てるだけ」ではなく、
「家づくりの全て」をその社長から伝授していただきました。
今振り返ると、なぜ社長がそんなことをわざわざしてくれたのかが痛いほどわかります。
下請け仕事というのは家を建て終わったら、お客さんと親戚のような付き合いもありません。
そうするといくら仕事してても駄目なんです。
お客さまのもとへ行くのはクレームの時だけ…。それでは大工としても本当に辛い。
何より自分の建てた家をずっと面倒見れないのが辛いんです。
「だからこそお客さんのための独立しなさい。お客さんと永い付き合いが
できなければ何の意味もないんだよ。」
そんなことを言われていたのかなと思っています。
様々なことを教えていただいた、その一年後に社長さんは他界されました。
当時跡継ぎもいなかったようなので、私の勝手な解釈ですが元気なうちに誰かにそういった「家づくりで本当に大切なこと」を伝えたかったのではないか思います。
■羽山工務店誕生
そういった大切な方の思い、後押し、何よりお客さまと永い付き合いをしたいという私の思いの元、平成元年に建築登録を済ませ、羽山工務店が誕生しました。
これまでに独立してから約40年(下請け期間含む)が経ちました。
ここまでくるのに地道でしたが、下請けの頃も含めると200棟以上の住まいに携わらさせていただくことが出来ました。
羽山工務店の代表として今思うことは…
やはり自分(会社)で動ける範囲、眼が行き届く、見えるっていうのが大事だと改めて思っています。人任せにしてクレームになってしまうなんていうのはもってのほかです。
それは少し古くさい職人気質かもしれません。
しかし、ちゃんとした、行き届いた仕事をするとそうなります。
末筆ではございますが、お客さまの家づくりが楽しく、幸せなものになりますよう、心からお祈り申し上げます。