私達羽山工務店は、
立川市、武蔵村山市、国分寺市(西町、高木町)で長い付き合いで住まいの困ったを解決してくれる、地元の工務店を探している人たちのために、時代のはやりすたりに流されず頑丈で使いやすく、夏は涼しく冬は暖かい快適な住まいと家族的なおつきあいを、提供することに生き甲斐を感じている工務店です。

~職人気質の私ですが・・・~  羽山明夫 コラム

羽山工務店で家づくりやリフォームを
していただいたOB客様、地域の皆様へ
隔月で発行している情報誌【ハヤコウ通信】。

その中で、約3年間にわたって人気を博した社長物語(現会長)
コーナーを、一話から十六話まで一挙に掲載!

羽山会長と羽山工務店の成り立ちの約50年がここにあります。
是非ともご一読ください。

 

第一話:上京

1964年3月、東京オリンピック開催の年。

中学校卒業後、東京都杉並区のO工務店に大工見習いとして宮城県から一人で上京。

O工務店は、西荻窪の善福寺公園近くで、静かな所にあり、社長兼親方と、奥様(おかみさん)と息子夫妻と、小学校に通う孫娘が一緒に住んでいて、そこに住み込みで、働くようになりました。

「なぜ大工を目指したのか?」弊社ホームページ「羽山工務店 誕生物語」にも記載してありますが、8歳違いの兄が大工修行を終え、宮城に帰ってきて、実家の家を一人で建て替え工事を完成させたのです。

その頃私は学校紹介の職業で就職先を探していたので、母は兄の仕事を見て、私に「大工になったら」とすすめたのです。だいぶ考えましたが、「大工になりたい」と決心し入社しました。

O工務店は兄が修業した所なので、親方家族とは親しみやすく、優しくして頂きました。

大工の兄もすぐそばに住んで仕事をしていたので、寂しくはなかったです。

 

第二話:サイドカー

大工の修行として、最初の仕事は、材料や道具を現場に運ぶために、サイドカーの運転を覚えることです。このサイドカー、自転車にリアカーの半分を付けた物なのですが、これがなかなか難しくて、左の方にハンドルを取られるんです。

一週間、毎日練習していたと思います。だんだん慣れてきて、近い現場は一棟分何日かかけて運ぶこともありました。遠い現場は、どの道を通って行ったのか覚えてないのですが、当時住み込みの善福寺を朝早く出て、中央区の築地の現場まで材木を積んでいき、大工さんの手伝いをして帰ってきたこともありました。当時は今よりも車は少なかったですからね。

それからこんなこともありました。材木を少し多めに積んで、善福寺池の坂を登れなくなって、自転車から降りてバックしないように、前後ブレーキを握って「どうしよう…」と考えていたら「お兄ちゃん押してあげるよ」と押していただき、無事に坂を登ることができ、嬉しかったことを今でも思い出します。(おかげで足が丈夫になりました。笑)

 

第三話:大工見習い

O工務店には、息子さんと青森県から来ていた、2人の大工職人さんが働いていて、親方は高齢のため、忙しい時だけ仕事をしていました。

道具として、新しいカンナを2台買っていただき、最初は親方が、刃を研ぎ、台をならしてなんとか削れましたが、私が刃を研ぐと、うまく削れないのです。「大工はカンナ削りがうまく出来ないとダメだ」と言われ、毎日が修業でした。

当時の建築材は、今のようなシステム材ではなく、ほとんどの家は白木材を加工して取り付けしていたので、削り物が多く、冬は砥石(といし)の灰汁(あく)で、手にあかぎれが出来て大変でした。

青森出身の2人の職人さんは、私と同じ東北出身ということで言葉も通じ、仕事には厳しかったですが、優しくしてくれました。

2年が経ち、宮城から私のいとこの息子(2歳下)が「大工になりたい」と同じところで働くようになり、サイドカーで材料運びの私の出番はあまりなくなっていきました。

 

第四話:時代の流れ

上京して3年が過ぎても、カンナ削りと大工さんの下働きが毎日の仕事でした。

私が働いていたO工務店には、大工用の木工機械も少なく、ほとんどが手作業でしたので、一棟の家を完成させるのに一年ぐらいかかりました。今振り返ると大変だったなぁと思います。

その頃から建築材料も新商品がどんどん出てきて、外部の窓も木製戸からアルミサッシに変わっていきました。

いち早く、新しい商品を取り入れお客様に提案した建築会社は、仕事の受注も増え、忙しくやっていたように思います。

一方O工務店では、社長や息子さんの考え方が旧来のだったので、建築の流れに乗れず、仕事がだんだん少なくなっていきました。

 

第五話:負けず嫌い

上京して4年。O工務店では新築の仕事は無くなり、リフォームの仕事が少々ある位となり、社長の知り合いのA工務店に青森の大工さんと一緒に手伝いに行くことがありました。その時同い年で同じく大工修行4年目の方が働いており、私はカンナ削りは負けなかったのですが、他の作業は彼の方が良く出来て恥ずかしい思いをしました。

そこから私の負けず嫌いの心に火がついたのです。

O工務店には5年間働く約束で入社したので、あと一年あったのですが、もっと仕事量が多い工務店で色々な作業に挑戦し、身体で覚えないとダメだ。と考え、社長と話し合い、「そういうことなら…」と納得して送り出していただき、4年間大変お世話になったO工務店を退社することになりました。

 

第六話:早く大工になりたい

O工務店で一緒に働いていた、いとこの息子T君も私と一緒に退社しました。

すぐに2人で既に独立していた大工の兄のところで、見習いとして働きたいとお願いしました。兄は結婚して武蔵野市に住んでおり、その近くに四畳半一間のアパートを借りてくれました。そこにT君と2人で住み、毎日仕事に通いました。

その頃は大型の分譲住宅の建売はたくさん建ち、仕事は次々にありました。当時は木造一戸建ての家を造るのに今とは違い、すみ付・きざみ・加工・造作と大変手間がかかりました。

 

ですが半人前だった私には一戸一戸完成することが勉強になりました。兄の所で一年半くらい働き、だいぶ仕事も出来るようになりましたが、まだまだ家づくりは奥が深く、兄に聞いても「見て覚えろ」と言うだけでした。

今思えば、兄も若かったし、一度に2人の見習いが入って大変だったと思います。

 

第七話:2度目の弟子入り修行

兄のところで働きながらも、ずっと「大工の基礎から習いたい!」という思いがあり、以前に知り合った宮城出身の親方に「仕事を教えてください」と電話をかけました。

すぐにお目にかかり、親方のもとで働くことになりました。

親方は当時48才で10年くらい前まで宮城で職人さんやお弟子さん数人と仕事していましたが、仕事が少なくなり、東京に出てきたそうです。私が行った時には職人さんも、お弟子さんたちも、みんな独り立ちされて、親方一人で仕事をされていました。

 

親方の住まいは、中野区の野方駅の近くで、私も始めて4畳半一間の部屋を借り1人暮らしとなりました。

親方は休みは月に2回(1日と15日)、現場に着くとすぐに仕事を始め、休憩も無しと真面目で厳しい方でしたが、大工仕事は何でも出来て、とても勉強になりました。なので、仕事をツラいと思いませんでした。

ですが、遠方の現場の時は毎朝一番電車で現場に向かうため、まだ若かった私には早起きがとても大変でした。

 

第八話:仕事は早く丁寧に!

当時親方は、木造建て新築住宅を建築会社より請け負っていたので、現場では「仕事は早く丁寧に!」とよく叱られました。でもわからない仕事は聞けばよく教えてくれました。

親方のところに来て、一年半くらい経った時、平屋で80㎡ほどの新築工事を「やってみろ」と言われ、親方のもとで、土台・柱・桁・母屋のすみ付。初めての事で上棟の前の晩は、翌日が心配で寝られませんでした。

初めての建前(上棟)で少々の間違いはありましたが、きちんと直し、棟が上がりました。その時のことは今でも思い出します。

お酒の好きな親方には、仕事だけではなく、お酒の飲み方も教わりました。親方一家が野方から上福岡へ引っ越すこととなり、2年ほどの親方の修行を終えました。毎朝早く、仕事は厳しかったですが、一回も休まず仕事に行きました。

 

第九話:再会

親方のところで2年間お世話になった後、再び兄のもとで働くことになりました。

そこで、上京してすぐお世話になった杉並のO工務店で一緒に働いていた青森出身のSさん・Yさんといとこの息子T君、私の4才下の弟(現在弊社の棟梁)が修業中でした。

Sさん・Yさんとは、3年半ぶりの再会となりました。以前とは違い私もだいぶ仕事が出来るようになっていたので、2人と一緒に働くのが楽しくて、とても勉強になりました。

当時(昭和45年頃)、木造2階建ての会社の社員寮や多数世帯の共同住宅の新築ラッシュで大きな仕事が次々に入り毎日忙しく働いていました。

 

第十話:結婚

当時、兄は三鷹に住んでおり、現場もその近くが多かった。

私は、2年前に借りた中野のアパートからバイクで仕事に通っていました。

やがて仕事で必要になり、自動車教習所に通って、免許を取り、それからは車で通うようになりました。

そんな中、母が田舎から上京し、私の一人暮らしの様子を見て、大変だろうと思ったのか結婚を勧められ、同郷の妻(経理部長)と出会い結婚しました。23歳の時でした。

最初は吉祥寺近くのアパートに住み、2年後の昭和49年1月に長男(現社長 昭彦)が産まれました。間もなくして、立川市柏町の借家に引っ越しました。

そして私が独立するきっかけとなった工務店の社長さんと出会うのです。

 

第十壱話:出会い

当時24歳。兄のところで働いていましたが、隣の現場で工事をしていたG工務店の社長に「建売住宅の仕事をお願いしたい」と声をかけられ、兄の了解を取り、いとこの息子T君と2人で調布市で木造建売住宅を2棟、大工手間請負として初めての仕事を無事工期内に完成させました。これが私の独立の第一歩です。

今思えば、G工務店の社長は、まだ若い2人に大事な仕事をよく任せてくれたと思います。

社長は腕の良い大工で、忙しい時は自分で現場で働く方でした。大工の技術も教えていただき、長いこと働かせていただきました。

 

第十弐話:夢のマイホーム

初めてG工務店の社長に仕事を任され、無事完成して自信がつきました。また、社長も認めてくれて次々に仕事を任せてくれました。朝早くから夜遅くまで、休みも無く働く日々でした。

 

その頃、次男(現専務 孝平)が生まれ、貸家住まいの住居が手狭になり、「自分でマイホームを建てよう!」と立川市幸町に土地を購入したのですが、家を建てるお金が無くて、その2年後に3ヶ月かけて自ら建てることができました。

その時、G工務店の社長や協力業者さんに大変お世話になりました。そして、36年経った今現在もその時の3業者さんには、弊社に協力いただき共に家づくりをしています。

話は変わりますが、結婚する前に妻(現経理部長)に「自分は大工だから私たちの家は自分で建てたい」話したこと。
妻はもう忘れているとは思いますが、私はプロポーズのつもりでした(笑)。

 

第十参話:独立

自分たちの家を建てた年に、三男の大輔が生まれました。
ローンを借りて建てたので金利がどんどん上がり生活は一番大変な時でした。しかし仕事はG工務店の他にも、あちこちの工務店から声をかけていただき、途切れることなく、努力すればするだけの収入があり、助かりました。

その頃から、家の近所や知り合いのご紹介で、自家請負のリフォーム仕事が少しずつ出来るようになり、それを機に、平成2年1月東京都の建設業の許可証を取得し、自宅を事務所にして「羽山工務店」として独立しました。

 

第十四話:別れ

私の独立を一番喜んでくれたのはG工務店の社長でした。

色んな工務店で働かせていただきましたが、「早く独立しなさい」と言ってくれたのはG社長だけでした。

この頃から、工事を外注としていただくようになりました。又、請負業としての様々なことを教えていただき、大変勉強になりました。今思えばG社長には2人の娘さんがいらっしゃいましたが、お嫁に出し、後継ぎがいないため、私に独立を勧めたのだと思います。

そんな中、社長が体調を崩され入院しました。
お見舞いに伺った時は「元気になってまた仕事頑張る!」とお話していたので安心したのですが、1カ月ほどして仕事の帰りに急に社長に会いたくなり、病院に寄ってみると、その日の朝から危篤状態だったそうで、夕方ご家族と私が見守る中、社長は永遠の眠りにつきました。63歳でした。

 

第十五話:自社ビル

G工務店の社長が亡くなり、G工務店からの仕事はなくなりましたが、以前お仕事をいただいたお客様からの紹介で、新築や増改築、リフォーム工事の依頼がありました。大工兼雑務で大変でしたが、その分やりがいがありました。その頃、次男の孝平(現専務)が建築系の高校を卒業して私の弟子として働くようになりました。

親子で一緒に働くのは大変な面もありましたが、次男は5年間頑張って大工になりました。

当時の大工仕事は加工材をカンナで削って取り付けるのがほとんどで、加工場が必要になりました。そこで、現在の事務所に倉庫兼作業場を平成11年3月に設立しました。

その後、自宅にあった事務所をこの倉庫兼作業場の一部に移転しました。

 

第十六話:社長交代

自宅にあった事務所を現在の事務所に移転し、仕事は元請けと、不動産会社からの新築工事をいただき、売り上げも順調に伸びていき、平成15年に「羽山工務店」から「有限会社羽山工務店」に変更しました。

その後、平成17年より不動産会社で働いていた長男の昭彦が主任として入社し、不動産業も始め、事務所も倉庫も改装し大きくなりました。

平成20年より、ハヤコウ通信の配布を開始し、おかげ様で多くのお客様にお仕事をいただけるようになりました。ありがとうございます。

この度、代表取締役社長を長男昭彦に引き渡すことになりました。

私は会長として今まで通り働きますので、宜しくお願い致します。

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長文にわたってお読みいただきありがとうございました。